『トーマス・マン物語』刊行によせて
ハープレヒトのこの著書でまず目を引くのは、本文だけでも2000頁を越える長さであろう。「枕としても使える」ほどの厚さである。長編小説や歴史書でも、単独でこれだけ分厚いものは珍しいのではなかろうか。
こんな長いものに根気強く付き合ってくれる読者が今時いるだろうか。活字を大きくしページも減らす傾向の出版界、「本の虫」も今や絶滅種に数えられる読者層。それにトーマス・マン愛読者世代も60〜70歳に差しかかっている。こんな状況のなかで、これほど分厚いものをはたして出す意義があるだろうか?この点をたえず気にしながらの翻訳作業であった。
それでも、この本の興味深い中身には大いに魅力を感じて、日本の読者にぜひとも紹介したかった。その魅力は、作家トーマス・マンの、作品論・芸術論というより、あくまで「人物」に焦点をあてている点にある。トーマス・マンという人間の魅力的な部分と厭味な部分がたっぷり描きだされている。
かれが残した大量の日記を初め、あらゆる資料を縦横に駆使し、膨大な知識や情報をたくみに紡いでトーマス・マンの人間像を描きだす。知識や情報を処理する際の著者の態度もいい。ドイツ現代史のもつ問題点をはっきり意識した姿勢になっている。芸術至上主義で保守的・ノンポリのトーマス・マンが、第一次世界大戦中のさんざんな思想的苦闘を経て、戦後はもたつきながらも徐々に思想的変容をとげていく。ヴァイマル共和制の擁護を口にし、台頭するナチズムと対峙するようになる。やがて亡命を強いられて、国外にありながらドイツの知性の代表として、ヒトラーやナチズムと勇敢に闘う。こうした保守の権化から、時代を代表する精神的闘士への変容過程は、決して直線的な単純なものではなかった。もたつきにためらい、ずるさに曖昧な態度表明とが交錯する緩慢なる変容であり、評価に慎重を要する複雑なものだった。その辺のところがじつに丁寧に述べられている。これもこの著書の魅力の一つであろう。また魅力的な叙述には、著者の履歴(ラジオ・テレビの記者、フィッシャー出版の編集長、ブラント内閣の文書課部長、フランスに住みながらのドイツ文学研究)が大いに関係していると思う。ドイツ文学研究の主流に属する人たちにはおそらく書けないスタイルの伝記といっていいかもしれない。
叙述がくど過ぎたり、なんでそんなことまでここで言及する必要があるの、と感じさせられることも何カ所かある。だが全体として納得のいく描写になっているのは、ヴァルター・イェンス夫妻を初め、いろんな仲間に原稿を読んでもらって、意見や注文を加味しながら纏めたところにあるのだろう。
翻訳に当たっては訳文にかなりの神経をつかった。原文の論理を正確に読み取ったあと、いかに分かりやすい日本語にするかである。小説は当然のこととして、それ以外の文献翻訳の場合も、もっと日本語に精力を注ぐべきだと、ヘーゲルの著書の訳に奮闘中の長谷川宏さんも言われている。社会科学関係や歴史書の翻訳で、この点が意外となおざりにされてきたように私も常々思っている。その辺の配慮が私の場合どれだけ結果に表われているか自信はないが、少しでも読みやすくなっていると感じてもらえたら、訳者としてこんなに嬉しいことはないだろう。
岡田浩平(早稲田大学教授)
トーマス・マン物語 幼年期からノーベル文学賞まで
三元社 クラウス・ハープレヒト著 岡田浩平訳
A5版上製 680頁 本体7800円
■第巻 「亡命生活の始まりから第二次世界大戦末期まで」(2005年12月刊行予定)
■第。巻 「第二次世界大戦終了から最晩年まで」(2006年秋刊行予定)
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