アルブレヒト・デューラーの有名な銅版画に、『メレンコリア氈xがある。魔法陣・砂時計・コンパス・さまざまな道具類と、眠る犬・蝙蝠などに囲まれて、冷徹なまなざしの人間が描かれた銅版画は、今日に至るまで多くの論争を生んだ。
この銅版画が作られた一五一四年は、ドイツ農民戦争の先駆者が登場した時代である。エンゲルスによれば、「ブントシュー」や「貧しきコンラット」と呼ばれる人々が決起し、諸侯・貴族・僧侶たちに闘いを挑みながら、いったん敗れ去った時代にほかならない。
その時代は、デューラーの眼に絶望として映ったのではない。希望として映ったのである。だからこそ、興隆する数学や技術の象徴としての魔法陣・コンパス・道具類と、没落を象徴する犬・蝙蝠という両者に囲まれながら、人間は冷徹なまなざしでいられたのだ。こうしてみると、メランコリーとは、滅びゆく中世の絶望を勃興する近代の希望へと転換し、また、暗黒の大地が醸し出す絶望を人間の輝きへと転換することを意味するものだったといえよう。
ところが、希望であったはずの近代における人間は、資本主義社会の展開と二つの世界大戦を経る中で、絶望を抱え込むようになってしまった。ここに、「うつ病」という医学概念が誕生することになったのである。そして、今日における新自由主義の流れの中で、うつ病概念は拡大し、日本は欧米と同様に「抗うつ剤国家」への道程を歩みはじめている。うつ病と診断された人たちの前には、もはや絶望の荒野しか広がっていないのだろうか。
そうではないと、私は思う。かつてデューラーがドイツ農民戦争の時代を人間の希望へと転換したように、イラク戦争と健康増進法という名のナチス流禁煙立法の時代を、個人の新しい生き方へと変えていく契機が、うつ病には内包されている。
このようなモチーフを抱きながら、私は『新しいうつ病論』(雲母書房)を上梓した。前著『人格障害論の虚像』(雲母書房)で描いた戦後から現在までの虚妄の精神医学を、うつ病論の再構成を通じて希望の精神医学へと転換したかったのだ。
さらにいま、私は、精神医学の範囲を少しだけ越境するような、人間学を構築してみたいという誘惑にかられている。近代の偉大な哲学者が示した、こころ−意識−精神から家族−市民社会−国家へと向かう精神哲学を、青年の失恋というきわめて個別的に映る心的体験を通して、反転させることができないだろうかという構想だ。そういう試みを『別れの精神哲学』(仮題)として完成させることができたなら、それは現在という時代に対して、ささやかに拮抗することができる三部作を呈示しえたことになるだろう。