2010.08.08 up 


 ●アジア文庫・大野信一さんをしのんで
 アジア文庫と大野さんのこと
高二三(新幹社代表)


 アジア文庫は、一九八四年に神保町で開店しました。アジアの本の専門店は、当時ほかに類がなく、多くの読者から愛される書店でした。
 今年の一月二三日、店主の大野さんが亡くなられ、先月五月二二日に「アジア文庫と大野信一さんの会」が催されました。大野さんと生前親しかった著者や編集者が集まり、有意義な交流の場になったそうです。今月号は、NR出版会加盟社のなかでもとりわけ大野さんと親交の深かった新幹社代表・高二三が、大野さんとの思い出を綴った追悼文を掲載します。

 私が三千里社に在籍していた頃、大野信一さんは内山書店に勤めていた。ご存知の方も多いように、神保町すずらん通りの内山書店は上海で魯迅と親交のあった内山完造が創業した、日本でも有数の中国書籍専門の書店である。その中国専門の書店の中で、棚二段ぐらいを朝鮮関係の書籍が占めていた。そこに「季刊三千里」を置いてもらっていた。「季刊三千里」は当時、内山書店では二〇冊から三〇冊売れており、バックナンバーもすべて常備されていた。その二〇〜三〇冊の売上げが多いか少ないかは、判断に迷う。当時はウニタ、信山社、書肆アクセス、そして三省堂、東京堂、書泉……それら大型店でもそこそこに売れていた。現在とは本の売れ行きが全然違っていたのである。もちろん内山書店の担当者は大野さんだった。内山での売上げは大野さんの力によるところが大きかったに違いない。それ以降のお付き合いだから、実に長い間、厚誼をいただいたことになる。

 ある時、大野さんから電話があり、相談したいことがあるので会えませんか、というお誘い。そこで、内山書店から独立し、中国を除くアジアの本を集めた書店を開く構想を初めて聞いた。「中国を除く」というのは、大野さんの内山書店への義理立てだったと思う。後に中国関係の本は点数が膨大で、それらの書籍を扱うには店の坪数がそれなりに必要であり、運営・維持が大変だからだ、とも聞いたが。

 仕事の話は簡単で、「季刊三千里」を七掛で、完全委託(無期限で、実売分のみ支払う)という取引条件を決めたことだ。あとは酒を呑みながら、経営の困難さ、とりわけまだまだ「アジア」が日本では認知されてはおらず、商売として厳しくなるに違いないというような話をしたと思う。しかし、もの静かでおとなしい大野さんは何かの「衝動」に駆られているのか、考えは微塵も揺るがなかった。私はできるだけ応援しようと思った。

 アジア文庫は、出発時はたいへんだったと思われるが、多くのメディアにも紹介され、客は日々増えていった。ブームに乗って本を売るという書店は多いが、アジア文庫はアジアの情報を集中させ、一種のインフラとなり、ブームそのものを創りあげたといっても過言ではない。いまでこそ大型店でもアジアのコーナーができているが、アジア文庫が成功するまでは、アジアの本は無視・軽視されていたのである。大野さんの仕事は旧態依然たるアジアとの向き合い方を書店業界、出版業界、メディア、さらには日本社会および人々に一石を投じる先駆的な仕事だった。

 三千里社を辞め、PARC(アジア太平洋資料センター)、明石書店を経て八七年に新幹社を興した私は、今度は大野さんに相談に乗っていただく立場になった。そして新幹社の刊行物はすべて七掛で、しかも現金で買い取ってもらうことになった。発足時の困難なときに取り決めたことだが、それが終生変わらなかった。電話代に事欠いて強引に注文をいただくという押し売りまがいのこともした。大野さんは何も言わず、静かにレジから現金を取り出して買い取ってくださった。どの大型店でもアジアの本を置くようになって、経営が楽ではなかったかも知れないのにと、今でも胸が痛む、酸っぱい思い出である。

 言葉少なで物静かな大野さんを私は「誠実な抵抗者」だと思っている。それは新刊情報の通信誌「季刊 アジア文庫から」などで、アジアの本の情報を発信し続けた姿勢に如実に現れている。過大評価も過小評価もせず、リアリティのある店主として、一貫して誠実であった。大野さんの考え、生き方は、彼が作り上げた書棚にこそあると思う。大野さんの死とともにアジア文庫は一旦閉店となったが、原点ともいうべき内山書店に経営が引き継がれ、同店の三階に移って息づくことになった。

 一度だけ、三中堂の佐古さん、Kポップスターの大門さん、大野さん、私の四人で朝まで飲んだことがあった。大野さんが「いい日、旅立ち」を歌ったことを鮮明に覚えている。


大野さんが二三年間発行してこられた「季刊 アジア文庫」に掲載された文章や対談などを一冊の冊子にまとめた『アジア文庫から』(頒価一二〇〇円)が刊行されました。お問い合わせは、めこん内「アジア文庫の会」まで。


『アジア文庫から』を読むと、まるで店内の匂いに包まれているような気持ちになります。収録されている「アジア文庫 店主のつぶやき」のなかの89年8月の編集後記には、設立2年目の新幹社を「応援してください。」と静かに読者に呼びかける大野さんの言葉がありました。多くの読者や著者、編集者に愛された大野さんのご冥福をお祈り申し上げます。(事務局・天摩くらら)


(「NR出版会新刊重版情報」2010年7月号掲載)

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