NR出版会連載企画 NR版元代表インタビュー1
自主講座から始まった 逃げるわけにはいかんもんな
亜紀書房(代表取締役
立川勝得氏)
──亜紀書房のNR的一冊といえば宇井純さんの『公害原論』です。立川さんは宇井さんが東大で主催していた公開自主講座「公害原論」と「大学論」に関わっていたと聞きました。
僕が東京に出てきた一九七一年頃、学生運動は一時期より下火ではあったけれど、学生たちの闘いは続いていました。そんな時代、宇井さんの自主講座に通うようになり、講座のあとの宇井さんに「自主講座を手伝わせてください」と申し出て、実行委員会に関わるようになったんです。宇井さんに付いて、水俣病の患者さんの支援や沖縄の石油備蓄基地など、反公害運動の現場をまわりましたよ。
──公開自主講座「公害原論」の開催と、書籍『公害原論』の刊行は同時並行で進めてられていたのですか?
毎週講義が終わったら実行委員会の皆で録音しておいたテープを起こして、ガリ版を切って、印刷・製本して次の週の講座のときには講義録として五〇〜一〇〇円くらいで販売しました。仕事で毎週は参加できない人もいたので、そうやって便宜を図りながら運営していました。「自主講座」の第一回目は一九七〇年一〇月、『公害原論』の単行本第一巻の刊行は一九七一年三月だったから僕が関わったときには既に刊行は始まっていました。
──宇井さんの「自主講座」は、学生だけでなく、社会人、主婦などにも開かれていたのですね。
作家の森まゆみさんも参加されていたようです。実行委員会にはいろいろな人がいて、経営者もいた。僕はその縁で印刷会社と出版社でアルバイトさせてもらいました。「自主講座」の地方巡業もしたし、石牟礼道子さんや松下竜一さん、日高六郎さんなどが講義にいらしたときも皆で準備しました。
──運動から始まって、どのように会社を立ち上げていったのですか?
三年経って大学を卒業して、自主講座に関わってきた若いもんが食いっぱぐれているのを宇井さんや先輩たちが心配して「立川、何か飯を食う方法を考えろ」と。印刷会社と亜紀書房での経験をもとに、仲間五人で印刷会社を立ち上げました。最初の五年は印刷機械の月賦も返さなきゃならないから本当に金がなくて、会社でご飯を炊いて五人で同じ釜の飯を食べましたよ。
──それでも仲間と会社を始める、というのは希望ある話ですね。
和文タイプの女性が非常に優秀で誤字が少なかったので、それとオフセット印刷で大学の紀要などを「自主講座」の縁もあって少しずつ受注していきました。そうすると人手が足りなくなって、運動の人間関係だけではなく面接して人を採用したりして、だんだんと普通の会社になっていったんです。
──大学を卒業後、普通に就職することもできたのではありませんか?
宇井さんに付いて全国の大学や公害現場をまわると、現地の被害者の方や青年部と交流することがありました。そうすると現地の同世代に「お前ら東京の学生なんて、大学出たら逃げていくんだろう」と言われるわけです。「いや、そうじゃない」と議論になる。逃げるわけにはいかんもんなと思いましたよ。で、気が付いたら先頭を走っていて逃げ遅れたんですね(笑)。
──十五年ほど前に立川さんが亜紀書房の仕事を継いでから、『公害原論』『凍土の共和国』が新装版で復刊されましたね。『砦の上にわれらの世界を』も復刊されるのですか?
いや、あの本はなかなか調整が難しくて。何とか復刊したいんですが。東大全共闘を描いた『砦の上にわれらの世界を』は、僕が学生の頃読んでいた本でもあるので。
──最近では『英国一家、日本を食べる』や『宅間守 精神鑑定書』など亜紀書房の書籍は好調のように見えます。
売れる本一冊の後ろには、売れない本五冊の在庫がありますから……。全然楽にはなりません。これからもどうやって生き残っていくか。出版ってある意味では「仮説を立てて、検証する作業」でもあるので、大外しするときもあるし、たまにホームランもあるし、それがクセになるのかな。力を入れた本が売れるのはうれしいし、ありがたい。書店の皆さんのおかげです。
※宇井純(一九三二〜二〇〇六)環境学者。東大助手時代、新潟水俣病を実名で告発して、教授の道を絶たれた。従来の科学技術者の多くが「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱して環境学のさきがけとなった。
今月からNR出版会の版元社長たちに「なぜ出版をやってるの?」という素朴な疑問をぶつけるインタビューを始めました。トップ・バッターは亜紀書房の立川さんです。NRの社長たちの話を通して、各社がどんなテーマをもつ出版社なのかをより広く知っていただけたらと思っています。取材にあたっては、渡辺美知子さんの『元気凛凛 日本の小出版』(1993年刊・柘植書房)を参考にしました。(事務局・小泉)
(「NR出版会新刊重版情報」2013年9月号掲載)