■■■ 書評より(抄) ■■■
■ 鷲田清一氏「『失われたもの』の回復めざす『裁き』」
現在の司法では、犯罪は<法>という国家秩序の侵害と位置づけられる。だから、罪の確定とそれに相応する合理的な刑罰の確定が中心に置かれ、問題のほんとうの解決、つまりは「失われたもの」の回復は、二次的にしか視野に入ってこない。被害者のニーズではなく、国家のニーズのなかで、審理は進められる。……著者たちが一九七八年に開始した「加害者と被害者の和解プログラム」(VORP)は、犯罪もしくは紛争を見るときに、どの法律を侵したのか、どのような刑罰を受けるべきかという「応報的司法」の視点から、だれが傷つけられたのか、そのひとはいま何を必要としているのかという「修復的司法」の視点へと、「レンズを変える」(原題)ことを求めている。/著者たちの憂慮は、専門家にすべての審理過程を委ねることで、わたしたちはみずから問題を解決する能力を失ってしまったのではないかというところにある。被害者が不在であるだけでなく、加害者にも矯正の機会はあっても赦(ゆる)しの機会はないのだから。現在わが国でも試みられつつある裁判外紛争解決(ADR)の手法の源流にある、この修復的司法の古典は、「裁き」が何の解決であるべきかという、いちばん基本的な問いへとわたしたちを呼び戻す。
(「朝日新聞」03年9月7日)
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4216
■ 斉藤環氏「『応報』のモデルから視点変換」
近代の司法モデルは、いうまでもなく「応報」に重きを置いてきた。ここで重要なのは、刑事法の定義によれば、犯罪の被害者は個人ではなく国家である点だ。国家のみが、応報的に犯罪者を処罰でき、被害者は常に手続きから排除される。/RJ〔修復的司法〕は、こうした発想に大きな転換を迫る。そこでは犯罪とは、国家ではなく、人々やその関係に対する侵害ととらえられる。犯罪は事態を修復すべき事務を生み出し、司法は被害者、加害者、およびコミュニティーとかかわりつつ、回復や和解を求めていく。RJによる和解プログラムは、加害者と被害者を敵対させず、むしろ相互の対話と交渉が重視される。……資本主義経済を地域通貨システムが補完するように、硬直した司法システムを補完する意味でRJの有効性を考えることは、やはりひとつの希望ではないだろうか。
(「信濃毎日新聞」03年9月7日)
■ 坂上香氏「私たちは『修復的』な社会のありかたをイメージできるか?」
本書は、具体的なエピソードをまじえながら、「修復的司法」の多様さと可能性を提示してくれる。……要するに、犯罪を見る私たちの眼差しを問い直せ、ということだ。しかし、これは容易なことではない。司法における被害者、加害者の役割を捉え直すことであり、同時に、司法関係者や犯罪の当事者だけでなく、地域住民それぞれが、犯罪にどう向き合うかが問われるからだ。……読み手である私たちが、この本の内容を日本社会という文脈に置き換え、また、それぞれの立場や問題にあてはめ、未だ実現しない「修復的」な社会のあり方(「処罰」ではなく、「責任」と「回復」に基づいた社会)をイメージしながら、読み込むことができるかどうかにかかっているのだと思う。
(「インパクション」137号、03年8月)
http://www.jca.apc.org/~impact/magazine/impaction.html
■ 河合幹雄氏
修復的司法は、有名になったものの、誤解されていることも多い。そんななか、修復的司法の元祖と言える本書が訳出されたことは喜ばしい。単に被害者を重んずるのでも、被害者加害者関係を中心にするのでもなく、加害者のことも十分に視野にいれ、コミュニティと呼ばれている、両者を取り巻く周辺を含めて事件を取り扱う、つまり事態の全体性を専門家によって見失わないことが第一の原理であることが読み取れる。……被害者加害者直接対話の創始者とも言うべきゼアの、後に大きなうねりを生んだ本書は、そのような書物特有のエネルギーに満ちている。文章は極めて読みやすく、具体性が高い。刑事司法に関係する実務家に一読を勧めたい書物である。
(「自由と正義」04年3月号)