『クルド人のまち』刊行に寄せて
国境の交差点に根を張る人びと
松浦範子(フォトグラファー)
イラン、イラク国境付近の山奥に点在するクルド人の村々。山肌に沿って走る砂利道を進み、大きなカーブを曲がり切れば、また一つ二つの小さな集落が向こうの断崖に見え隠れする。日没後、そんな山間に点る窓の灯りは、きらきらと瞬いて、まるで天から舞い降りた星々のようだった。その光景に、イランに暮らすあるクルド人に向かって「平和ですね」と話しかけると、その人は笑いながらこう言った。「ここに平和なんてものは、ありはしないよ」――。
イラン、イラク、トルコ、シリアなどの国境の交差点に根を張るクルド民族は、ある時は周辺国の駆け引きに利用され、またある時は、国の厄介者あるいは反逆者のレッテルを貼られて、しばしば差別的な扱いや迫害にさらされてきた。
雄大な自然に抱かれ、遠目には平穏に見えたあの山間の村々も、実は隣国との戦争や、クルド人自治をめぐって勃発した中央政府との衝突において、多くの人々が犠牲となった「血の大地」と呼ばれる地だったのである。すでに大規模な戦闘は終結し、もはや目立った攻撃や衝突は見られない。だが、人々が心身に負った癒えることのない傷みと、誤った報道や認識による偏見に、クルド人たちは今もなお、苛まれている。
ある写真家は、有刺鉄線越しに撮った、岩の割れ目に芽を出した野草の写真を指して言った。「われわれクルド人を表した」と。また、民話や詩の世界観から「クルド民族の母なる大地」を描き続けるクルド人画家は、こう語る。「あなたがた日本人と私たちは、ともに戦争の悲惨さを経験した兄弟です。しかし、クルド人を攻撃してきたのは、主に自分たちが住む国の政府でした。そこに私たちの、日本人とは違ったもう一つの悲劇があるのです」。
*
クルド人のまちを一つ、また一つ、と歩くたびに、言葉にできないあれやこれやの複雑な思いは、何の解決の糸口もつかめぬまま心の底に募ってゆく。そんな一筋縄ではいかない広い土地をどこもかしこも訪ねて行きたいという衝動にかられて始まった私の「クルド人のまち」への旅の進路は、トルコからイラン、イラク、シリアへと延び、早10年以上が過ぎた。
世界には、強大なものと同時に、ともすれば見逃してしまいそうな存在が無数にある。冷たく無関心な眼は、それを見ようともせず、気づくことさえない。そんな心の貧しさや弱さを、クルドの人々の眼差しは鋭く問うているかのように、私には見えてならない。
その一方で、クルド民族の悲劇やら苦難をつぶさに並べたてたとて、とうてい彼らを理解したことにはならないということをも、私は思い知らされてきた。彼らを“国境で引き裂かれた悲劇の民族”などといって、わかったようなつもりになったら失敗する。
クルド人たちのこんなざわめきが聞こえてくる。「苦難や悲劇は確かにある。でもそれは、ことの一面でしかない。私たちの知恵と勇気、そして有形無形の文化にも、もっと目を向けてもらいたい」。
イランには、確かに古代から脈々と伝えられてきたクルド人の習わしや固有の言語が、各地それぞれに活きていた。歴史を物語る貴重な遺跡も、数多く見られる。そして民族衣装や伝統芸能、歌や踊りは、彼らの日常と密接に結びついていた。それらはクルドの人々にとって、喜びや悲しみを分かち合うことであり、語らいであり、叫びであり、存在の証でもあった。そんな彼らの家を訪ねれば、「あなたは私たちの世界を照らしてくれた」との歓迎の言葉を浴びせられたものだ。「前を失礼します。背中を向けてごめんなさい」と詫びれば、「どうぞどうぞ、一輪の花には前も後ろもありません」という応えが返ってきた。客人に対するそれらの挨拶や決まり文句の数々は、まるで一編の詩のようだった。
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人は自分自身が生まれ変わるきっかけとなるようなエネルギーを与えてくれる存在を愛するものだという。「クルディスタン(クルド人の土地)」とは、私にとってそれだったのかもしれないと、近頃そう思えるようになっている。
ガタガタと軋む車に乗って、長い道のりを辿り、時間をかけてようやく行き着くことのできたクルド人のまち。彼の地に一歩踏み入れれば、いつだって人々の心意気をまざまざと見せつけられ、彼らの笑顔や逞しさやユーモア、暮らしの情景、また複雑な事情などもひっくるめた何もかもに、鼓舞させられてしまう。そうして胸の奥に溜まっていった記憶の断片は、再び私をさらなる旅へと誘い出す。クルド人のまちを訪ねる旅は、どうやらまだまだやめられそうにない。
【目次】
プロローグ あたらしい旅
1 彼らの辿った路
2 往古を語る境界の地
3 幻の「マハバド共和国」
4 アスコールの物語
5 移ろう時の波間に
6 国境の町
7 遊牧の民と部族の横顔
8 アフワンの旅
エピローグ ジンの子供たち
*刊行予告チラシ(2008.09.up)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/pic2008/Photo_m.noriko/com2.jpg
NR関連書 クルド民族を知る
クルド人のまち
新泉社|松浦範子/文・写真|2,300円+税|978-4-7877-0820-5
クルディスタンを訪ねて
新泉社|松浦範子/文・写真|2,300円+税|978-4-7877-0300-2
クルド学叢書 レイラ・ザーナ
新泉社|中川喜与志ほか/編|2,800円+税|978-4-7877-0500-6
クルディスタン=多国間植民地
柘植書房新社|イスマイル・ベシクチ|4,500円+税|978-4-8068-0350-8
新月の夜が明けるとき
新泉社|中島由佳利|2,200円+税|978-4-7877-0312-5
クルド民族
亜紀書房|S.C.ペレティエ/著、前田耕一/訳|2,330円+税|978-4-7505-9101-8
今日も病院に銃弾の雨が降る
亜紀書房|鈴木崇生|1,800円+税|978-4-7505-9915-1
匿されしアジア
風媒社|アジアプレス・インターナショナル/編|2,000円+税|978-4-8331-1045-7
来て見てシリア
凱風社|清水紘子|1,900円+税|978-4-7736-2208-9